駆け出しエンジニアの気ままにブログ

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【本まとめ】資本論の入門書「マルクス自身の手による資本論入門」をまとめてみた。(1)  

shihonron_nyuumonn

1872年出版の資本論。

当時は産業革命の中にあり、機械によるマニュファクチャリングが労働力の価値を低下させていた。

今回は「資本論」です。

資本論に興味はあるもののなかなか手が出ない・・・と思っている人は多くいると思います。
自分もそんな一人でした。
入門書ならいけるのでは?と思い、概要を知るために本書を手に取りました。

ということで、「マルクス自身の手による資本論入門」のポイントをまとめてみたいと思います。


Chapter 01 商品と貨幣

Point 01: 「資本主義的生産様式」が優勢を占める社会では、社会の富は「商品」の膨大な集まりとして、そして一つ一つの商品はこの富の要素をなす形態として、わたしたちの目に見えている。


「商品」は、「使用価値(人間の何らかの種類の欲求を満たすために役立つもの)」と「交換価値」の2つの価値をもちます。
「交換価値」は、有用なものが互いに等しいものとして認められ、互いに交換されるときの両者の量的な比率です。
「商品」の「交換価値」は、「商品の価値」の表現様式でしかなく、商品が価値をもっていることを見えるようにし、そしてまた商品の実際の交換を仲だちするのに役立つ形態でしかないことになります。
「商品」の「交換価値」に表される「商品価値」は、商品をつくりだすときに費やされる「労働」、つまり対象化した労働からなっています。


Point 02: 「資本主義社会」では、生産者は自分の必要のために生産するのではなく、他人の必要のため(市場にもっていくため)に生産するのであって、生産物ははじめから「商品」の役割を果たすべきもの(自分自身にとって「交換手段」として役立つべきもの)です。


「資本主義社会」が存在できるのは、生産がすでに互いに並んで自立して営まれる有用な労働種類からなる一つの多岐なシステムにまで(広範に枝分かれした社会的分業にまで)発展したときだけです。
無限に多様なこれらの有用な労働種類のそれぞれが自立的に営まれているからといって、どの「人間労働力」の支出も他の人間労働力の支出と同じものであることに変わりはなく、もっぱら人間の力の支出というそれらに共通なこの属性においてそれらが商品価値を形成するのです。
発達した分業が成立したのちには、個人的な労働のそれぞれの量もまた、社会的な平均労働の、つまり社会的な労働力の平均的な支出のさまざまの量として意味をもつだけです。
「労働の生産力」は、「労働者の熟練の平均度」、「科学の発展段階」と「科学の技術的な応用可能性」、「生産過程のもろもろの社会的な結合」、「生産手段の規模と作用能力」によって、また「自然の事情」によって規定されるので、非常にさまざまです。
「労働の生産力」が大きくなればなるほど、財賀の生産に必要な「労働時間」はそれだけ小さくなり、財賀に結晶した労働量はそれだけ少なくなり、「財賀の価値」はそれだけ小さくなります。


Point 03: 「貨幣」自身の価値は、それを生産するのに必要な「労働時間」によって決定されていて、同じ量の労働時間が凝固しているほかのすべての「商品の分量」で表現されます。


「貨幣」は自分の価値量を自分自身で表現することはできず、他の商品で表現するほかはありません。
流通する貨幣の量は、売られる商品の価格の総額を、同一の貨幣片が流通する回数で割った数値によって決まるのです。
流通のなかにある商品の量も、商品の価格も、商品の流通の速度もたえず変動にさらされていますから、そうした流通が必要とする貨幣の量も増減します。
ですから、こうした増減のための貯水池が必要で、貨幣はこの貯水池に向けて排出され、また必要に応じて、貯水池からふたたび流通にやってきます。
こうした、貨幣の給排水溝の、つまりは蓄蔵貨幣貯蔵庫のもっとも発達した形態が銀行です。


Chapter 02 資本と労働

Point 04:「貨幣」はどのようにして「資本」に転化するのでしょうか。


貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ、両者の流通形態の違いによって区別されるだけです。
貨幣の仲だちによって行われる単純な「商品流通」では、商品と商品とが交換されたのにたいして、商品の仲だちによって行われる「貨幣流通」では、貨幣が貨幣と交換されます。


Point 05: 目的は「貨幣をより多くの貨幣と交換し、買うのよりも高く売る」ということなのです。


「使用価値」を資本家の直接の目的だと考えてはいけません。「個々の利得」もそうではありません。「ひたすら利殖する」という無休の運動だけが資本家の直接の目的なのです。
フランクリンのいうところでは、「戦争は略奪であり、商業はだましとりである」のです。
貨幣をより多くの貨幣と直接に交換する高利貸も「剰余価値」を生み出すことはありません。
個々の資本家たちが互いにどんなにだましあったとしても、売買だけによっては「余剰価値」は決して発生しません。
「余剰価値」は、むしろ、流通の領域の外部でつくりだされるのであって、流通の領域ではそれが表現されるだけ、貨幣化されるだけなのです。
わたしたちが「労働力」または「労働能力」と言うのは、人間の肉体のうちに、つまり生きている人格のうちにあって、彼がなにかの種類の「使用価値」を生産するときに運動させる、「肉体的能力および精神的能力の総体」のことです。
自由な人間が自分の労働力を商品として市場に持って行かなければならなくなるのは、彼がなにかほかの、自分の労働がすでに対象化している商品を売ることができないような状態に置かれるようになったときです。
だれでも、自分の労働を商品に体現させようとするなら、生産手段(原料、道具など)をもっていなければなりません。
そのようなもろもろの物を取り上げられてしまえば、彼は生産をすることがまったくできず、売ることのできるものとして彼のもとに残るのは彼の労働力だけです。


Point 06: 「貨幣」が「資本」になるためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者を見出さなければなりません。


ここで自由というのには、二重の意味があります。
一方では、自由な人格として自分の労働力を自分の商品として自由に処分できる、という意味です。
他方では、労働力のほかには売ることのできる商品をもっておらず、自分の労働力を活動させるために必要なすべての物から切り離されており、それらの物から自由だ、というときの意味です。
「労働力」という商品は、ほかのどんな商品とも同じく、「財貨の生産に必要な労働時間」によって決まる価値をもっています。
「貨幣所持者」は「資本家」としてさきに立ち、「労働力所持者」は「資本家の労働者」として資本家のあとについていきます。


ポイントとしては、
・資本主義社会では社会の富は商品の集まり、一つ一つの商品は富の要素をなす形態として表現される。
・「商品価値」=「原価」+「労働力」であり、「労働力」の価値は財貨の生産に必要な労働時間で決まる。
・「生産力」が大きくなると「物の価値」が小さくなる。
・資本家の目的は「ひたすら利殖する」という無休の運動である。
といったところでしょうか。

言葉の言い回しが少し難しいですね・・・。
次回以降も、まとめていきたいと思いますので、興味のある方はもう少しお付き合いくださいませ。

ということで、今回は以上です。


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